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この夏、熊本城に登城が叶った。
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まずは長塀に沿って櫨方門より城内にはいる。
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二様の石垣が見事な曲線を描いている。
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天守に登って見渡せば街の様子と、宇土櫓が下に見える。
天守から降りて本丸御殿へと向かう
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本丸御殿は二つの石垣をつなぐように建てられている。
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大広間の圧倒する雰囲気を堪能
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昭君之間が再現されていて、以前にテレビで見ていた現物が目の前にある。
なかなかのものであった。
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2014.08.15 Fri l 史蹟写真 l コメント (0) トラックバック (0) l top
西国33か所、22番札所の総持寺
総持寺1

総持寺2

おしなべて
老いも若きも
総持寺の
ほとけの誓い
頼まぬはなし

平安時代の中納言藤原山陰が父の遺志を継ぎ、890年に開いたとされる高野山真言宗の寺院。
2014.07.13 Sun l 史蹟写真 l コメント (0) トラックバック (0) l top
右近1
高槻城跡にあった高山右近の像。
右近2
高山右近高槻天主教会跡にあった右近の像。
Wikipediaによれば

室町時代は入江氏の居城であったが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主となった。天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれた。豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられた。内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わった。
明治7年(1874年)に廃城となり、東海道線が敷設される際、石垣や木材などがその資材にあてられた。現在、城域の一部が城跡公園として整備され、復元石垣、高山右近像が建てられている。


2014.04.28 Mon l 史蹟写真 l コメント (0) トラックバック (0) l top
宇陀松山

ふらりと歩いた宇陀の街並み、奥に石垣が見える。
聞いてみると「宇陀松山城」の石垣の一部だとか。

宇陀松山城(秋山城)は、沢氏と並んで宇陀郡を領分する国人である秋山氏の本城(秋山城)として築かれた。城跡は大宇陀区の市街地部(松山町)の東側にそびえる「古城山」一帯に存在し、少なくとも南北朝期には本拠を構えていたものと思われる。天正13年(1585)豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去し、以後、豊臣家支配下の諸将の居城となり、関ケ原の合戦の後には福島孝治が入城した。


時間が無く城跡に登城することはかなわなかった。

近年の発掘調査により本丸御殿をはじめとした礎石建物や大規模な石垣、多彩な瓦・陶磁器類などが出土し、江戸初期の城郭の構造を極めて良好に残すことがあきらかになった。また、城を破却した小掘遠州の書状が見つかり、城割(城を壊すこと)の内容が把握できる貴重な事例として注目を集めている。


2014.04.13 Sun l 史蹟写真 l コメント (0) トラックバック (0) l top
福知山2
明智光秀が築いたと言われる福知山城に登城してきた。
福知山4

福知山3

福知山1

午前中早かったのであまり人も多くなかったせいか、ゆっくり見ることができた。
もう少し後なら桜が綺麗だったんだろうが。

2014.03.22 Sat l 史蹟写真 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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